Student Essay 杜沁春To-Shinshyun (Japanese version)
(中国語訳)
杜沁春 中国四川省成都市出身 23歳 専門:大学マーケティング 大学院:経済思想史
北大に来る前に
私は中国の大学での四年間に、将来の職業や人生の行方などについての計画を何回も調整し、一大学生のすべての可能な進路を辿ろうとしたことがあった。以下は学年順に私の考えの変化について述べる。
大学一年生の時、学内最大規模の英語サークルで学習部部長を務め、17人の私が自ら選びぬいてきた英語の上でエリートな部員を率いて、サークルメンバーの英語力を向上させるべく様々なイベントや交流会を主催していた。とともに、大学というと全国各地から学生たちが集まり、私はそれを見聞を広げる絶好のチャンスに思い、積極的な社交をし、たくさんの良き友達を得た。
二年生の時、部活で新入生の後輩に自治権交代の準備を終え、次第に表舞台から撤退し、栄光を納めて引退した。この時、うちの大学のアメリカ留学中のOGの影響で、アメリカ一流名門ビジネススクールへ留学し、マーケティングを勉強することを夢見た。目指すのはとあるグローバル企業でGreat China地域マーケティング ディレクターだった。TOEFLの前にGMATをやる戦略を立て、二年生の夏休みに上海へ行き新東方塾でGMATコースを勉強した。先生の話やクラスメートの交流から、いくつか不利な情報を入手した。
1.アメリカの職場でマーケティングのプロで活躍しているのはほとんどアメリカンな女性。 2.外国人は文化的なバックグラウンドが欠け、語学の教養が乏しくて仕事が進みづらい現実。 3.アメリカのビジネススクールでは、マーケティング専門という修士課程は設けられておらず、マーケティングはMBA課程に集成されている。しかし、伝統的で歴史のあるこの斜陽のMBA専門には2年の青春と莫大な金銭的投資が必要とされ、出身校を重要視しているアメリカの業界では高いリターンを望めばトップ10のビジネススクールに入らなければならない。そこでトップ10の選考基準は厳しくて特に学部生のGPAを問うが、私は大学一年生の頃テストスコアに力を入れなかったため、その基準をクリアするのは無理だった。さらに、実務経験がないということはビジネススクールの教室で、みんなが理論部分からケーススタディに移ると、元社長たちが昔話をイキイキしゃべるのをそこにじっと座ってボウとして聞くしかないことを意味している。それにしても、上海新東方でのGMAT勉強は、私の論理的分析力と判断力を著しく向上させてくれたし、たくさんの仲間ができ、アメリカ留学全般に関する情報を手に入れ、見分や視野を広げた。5000元は無駄にならずに済んだ。
三年生の時、アメリカの中国現地法人とアメリカのビジネススクールは、実際に一脈相承で、ある意味で大手外資系の研修制度とビジネススクールでの教えは似ているとわかった。この時、私は外資系で何年か就職し、実績を上げてビジネスセンスやスキルを身に着けてからMBAコースに入り、アメリカ本土の会社に入りグローバル給料をもらい帰国するという三つのステップこそ最適な選択だと結論した。
しかし、三年生の後期に私は友人と協力し、香港の会社を通してローカル ロンドンゴールド先物取引をはじめ、ちょっと儲かった。モニターの前に蝋燭線を見つめながらテクニック分析やファンダメンタル分析をし、マーケットの動きが自分の予想通りの方向に進むのを満足しげに見るのを好きになった。精度の高い分析と残らずにすべての情報をシェアする精神は国内のゴールド取引業界でちょっと名を立てた。自分の天職は金融かなと思っていた。とともに、楽にお金が儲かったから、苦労しても比較的に安い給料しかもらえないスウェットショップである在中外資系企業の現実というマイナス点を見切り、私はドンと卒業後は独立トレーダーになり、短い間に立派なディーラーとなって中国黄金先物取引という未開発な業界で創業し、新たな一面を切り開いていこうと決意した。
四年生の時、単なる一人の個人トレーダーはリスクがあるため持続的で安定した収入の保証はないと認識するようになった。取引の傍ら、勉強好きな私は大学院で修士号を取るのも十分可能なことで、取引がうまくいかないと卒業後就職してもよいと考えた。ということで、世界中一番難しい大学院統一入試――中国統一修士入学試験を受験した。ついでに日本語一級試験を受けた。2007年11月19日、日本語一級の過去問をやり、365点を取ったので、気軽に4時間の休みを自分にご褒美した。寮に帰ってネットサーフし、偶然、小春掲示板で日本留学についての議論を見かけた。英語と日本語が両方できれば、東大に挑戦可能という。世界一流名門、留学、これらは昔の夢だったが、アメリカの名門がGPAで可能性をなくしたけれど、東大の金融コースはGMATとTOEFLを必要とし、私は希望を感じ、夢が再び燃え上がった。親友とお酒を飲みながら相談してみた後、夢の名義で東へ行こうと決めた。
こうして、2007年12月2日に日本語一級試験を受けた後、東大を受けるために2008年2月24日のTOEFL試験を受験した。2月には中国の春節があり、家族と一緒に親戚の家に回してきて忙しかった。気が付くと、試験日はあと一週間だった。僕は学校の寮に行って引きこもって特訓をすることになった。当時はちょうど中国南地方で氷災害がひどく、成都は湿度が高いためとりわけ寒かった。寝室は暖房が付いていないので、勉強すると20分間経たないうちに手足を感じられなくなっていた。食事も20分をかけて学校の外のお店に行ってするしかなかったし、寒い外で40分歩かざるを得なかった。おまけにTOEFL iBTという難関試験がプレッシャーをかけ、心身的にきつかった。あきらめようと何度も思ったことがあったけれども、ここであきらめると今後も難関の前にすぐ逃げてしまうので、責任を担えない男になるのが嫌だった。まあ、頑張ってみた。結局95点をとり、読解と聴解はほぼ満点でまあまあだった。
日本留学の申請にあたって、大学の研究生入学は4月と10月にあり、理系は入学月の一年前に教授に連絡を取るべきで、文系はせいぜい半年前だ。東大経済学部は研究生制度を整えていないので、他校に研究生として渡日し、院入試で東大を狙うことにした。2008年10月に研究生として渡日を目指したが、2007年12月に受けた日本語一級試験の結果発表は2008年3月中旬になるから早めに申請をすることが無理だった。どうする?日本語も英語のテストスコアがないまま、競争の中で不利な地位に陥てしまうので、1月に一回目の申請は各大学の一番偉くて難しそうな先生を狙う戦略を立てた。自己紹介のメールを送っても返事はゼロだった。やはり日本人の教授は確実なものしか信じないか。3月に日本語一級とTOEFLのスコアが出てきて、あらためて前にメールを送った先生たちのところに追加的に報告メールを打った。
2010年2月25日